哲学者が共通して言っていることを胸に刻むと人生が少しは楽になる。
こんにちは!ナイーヴです。
僕は哲学が好きで、哲学関連の本は時々読んでます。
「哲学カフェ」なるものが最近ちょっとした流行らしいですが、機会があれば行ってみたい。
で、以前に「人生がツライならば哲学を少しでもかじってみるといいよ!」という記事を書いた。
この記事の中で、僕は最近読んだ哲学の本について書いたんだけど、何冊か哲学の本を読んでいくうちに、どの哲学者も言っている共通の事柄があったので、書いていきたいと思う。
僕が今まで触れてきた哲学者は、アドラーやアラン、孔子、エピクテトスなど。
そして哲学ではないけれど「聖書」なども読んだ。
そしてこれらの哲学者たち(特に最近読んだアドラーとエピクテトス)が言っていることは以下の通り。
●「自分と他社の課題を分離せよ」
●「その物事は我々次第であるものかどうか」
この2つの言葉を見てみると、同じようなことを言っていますよね。
要は、「自分でどうにかできることのみ考え、自分ではどうにもできないことは考えるな」ということです。
以前の僕は、「自分ではどうにもできないこと」について思考を巡らせ、心配し、不安になり、そしてイヤな気持ちになっていた。
例えば、職場では
●朝あいさつをしても、返答がそっけない。何かしたかな・・・?
●仕事ができないと思われているんじゃないか・・・?
●もしかして自分のことウワサされてる?
●今の自分の言った一言であの人、気を悪くしていないかな?
といった思考が絶えず頭の中をぐるぐると巡っていました。
でも、結局は自分の考えすぎなことが多かったんですよね。
実際、相手はなんとも思ってなかったという。
このようなことは自分ではどうしようもないことなんですよ。
相手のあいさつの返答がそっけなくて、そのことについて悩んでも、今さら「返答がそっけなかった事実」を消すことができるわけでもないし、相手のその態度を変えることができるわけでもない。
「仕事ができないと思われている」としても、自分のことをどう思おうがそれは相手次第だし、「思わないでくれー。」って願ったってどうにもならない。
このことに気づくのにこの歳までかかってしまった。
気づくというほど大げさなものではないけれど、以前の自分はなんてムダな思考にとらわれていたんだろうと思う。
こうやって冷静に文字にしていると、
「ああ、そうだよな。当たり前のことだよな。」と思える。
それがいざその時になってみると冷静に考えられなくなり、イヤな気持ちになってしまう。
だから僕は、人間関係でイヤな気持ちになりそうな時、イヤな思考が浮かんできそうな時は
「今、このことを考えることによって何か(物事・相手を)変えることができるか?」
「この思考って有意義?意味ある?」
と、いったん第3者的な目線でみるようにしている。
そうすることによって、
「あ、こんなこと考えてもムダだわ。」とスパッとイヤな思考から抜け出せるようになった。
クルマの運転中に、マナーの悪いドライバーやイジワルなドライバーに出くわした時もそう。
以前の僕は、ずーっとイヤな気持ちを引きずったままだった。そのイヤな場面を頭の中で何回も何回も繰り返し再生するという負のループ。
でも今は、
「そんなこと考えていて何になる?」
「考えることによって今の事実は消せないだろ?」
という言葉(フレーズ)をいったん挟むことによって、スパッとイヤな気分を断ち切ることができるようになった。
これって少しは訓練が必要なのかもしれないね。
僕は、色々な哲学書を読んだり、スパッと気持ちを切り替えるように努めた時期もあった。
そのおかげか今でもカンペキではないけれど、以前に比べると大分生きやすくなっている。
昔の哲学者が言いたかったのはこういうことなんだろうなぁ。
古代ギリシャやローマでは、哲学は大抵の人が抱いている「難解」で「抽象的」で「役に立たない」ものではなく、人々の心を軽くし、生きやすくするため、街の広場などで人を集めて気軽に語られていたものらしい。
話が大分それてしまったけれど、「物事を自分でどうにかできることかどうか」を考えることはとても重要だと思う。
これからの人生を生きていくためにも。
以上、哲学者が言いたいことは同じだったということを書いてみました。
それでは!